理解より、一緒にいる優しさこんにちは。

すまいる情報代表の竹内です。

 

何かと気ぜわしい3月。

一足先に伊豆の河津桜が満開です。

開花の時間差で、5月の北海道まで約4カ月楽しめる桜の花見、四季豊かな日本の良さを感じる季節です。

花粉症も早めの出現のようです。お気をつけ下さい。

 

 

クラッシック・ギタリストの村治佳織さんが、20歳のときにパリの音楽院に留学した時の「20歳の挑戦」という20年前のテレビ番組をたまたま観る機会がありました。

15歳でデビューしてから、さまざまなコンクールで優勝し、本人いわく、大きな挫折もなく過ごしてきて、20歳になったとき、このままでいいのだろうかという、言い知れぬモヤモヤが湧いてきて、思い切ってパリに行き学び直したときのドキュメンタリーです。

その時、アランフェス協奏曲の作曲家として有名なホアキン・ロドリ―ゴから手紙をもらっていたこともあり、会いに行きます。

ロドリ―ゴ98歳、亡くなる半年前のことで、面前でロドリ―ゴ作の曲を演奏する機会を得て、大変な喜びと緊張を感じているのがヒシヒシと伝わってきました。

演奏が終わってからの村治さんのコメントが、とても素晴らしかったのです。

20歳にして、人間関係の極意のようなものを体得されたと感じました。 

 

いわく「アランフェス協奏曲の第2楽章は、ロドリ―ゴさんがお子さんを亡くした時の悲しみが現れているという事前の知識があったため、どのように演奏して、ロドリ―ゴさんの悲しみに寄り添えばいいのだろうと悩みました。

でも20歳で子供を産んだこともなければ、もちろん喪ったこともないので分からない。

そんな時、ロドリ―ゴさんに会えただけでも嬉しいのに、その作曲した曲を演奏できるという今この瞬間の喜びを伝えればいいんだ、と気づいて演奏しました。」

 

この言葉は、とても示唆に富んでいました。

今この瞬間をただ一緒に居る、一体になることが、本当に寄り添うことだと看破されたのだと思います。

芸術と触れる醍醐味も、作者という媒介者を通じて、「天から降って来る」ものと一体になれる感覚を味わえるところにあるのかも知れないと思いました。

 

 

人間関係だけでなく、自分に苦しみや悲しみが襲ってきたときも、変な解釈をつけたり、無理にポジティブになろうとせずに、自分の苦しみや悲しみと一緒に居ることで、一体になれて、どんどんその感情が薄まって来るのだと思います。

最終的には、万物と一体になる感覚を得られた方が覚者と言われ、五木寛之さんがおっしゃる「大河の中の一滴」の水のように、影響がないほど薄めてしまうのかも知れません。

五木さんの近著「白秋期」にも、余命宣告を受けた方を見舞ったときに、大丈夫、治るから頑張れ、などと見え透いたことを言うより、その瞬間感じたこと、今日は顔色がいいね、だけ言ったほうが、絶望感に寄り添われるより、よほど相手の気を楽にさせられるのではないか、と書かれています。

 

 

千日回峰行を二度満願された天台宗の酒井大阿闍梨の著書、一日一生の正・続編の本が大変売れているそうです。

続編の最後にある、編集者による短いインタビューが、私には一番心に染みました。

亡くなる三日前のものです。

「ただただ感謝やねぇ」と阿闍梨がつぶやきます。

 

誰にとか、何にとか言葉には出てきませんが、それが、毎日が一生のつもりで生きてこられた酒井師の「生かして下さりありがとう」という自分以外のもの万物に対する感謝の実感がこもっています。 

 

特攻隊基地で出撃間際に終戦になったり、生きながら死臭が漂い出すと言われる修行を満願された師の、一生が今日一日なら、争っている暇などないぞ、穏やかに、身近な人を喜ばせることに専心しなさい、という声が聞こえたのでした。

 

 

竹内 健二