こんにちは。

すまいる情報東京の代表、竹内健二です。

春爛漫、関東は桜の季節です。

2011年の大震災前年に、福島の滝桜を見に行ったのですが、平安時代から1200年も生き続けている姿に、精霊の存在を信じられずにはおかれませんでした。

翌年、福島の知人に尋ねたら、震災や放射能でダメになることもなく、何事もなく咲いていたとのことでした。

 

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一昨年に義父、昨年は義母、今年は20年連れ添った猫と、相次いで喪いましたが、人間の平均寿命を基準に長いとか短いなど言うべきでないと、改めて思うこの頃です。

 

何年、何歳だろうと、「今、此処」の連続でしかなく、積み重ねた年月を数えるより、「今、此処」を輝かせて行こう、お会いした方とも、その瞬間瞬間を共に生きようと桜を見て思います。

 

桜は、手折られても、そんなことお構いなく、一生懸命花を咲かせるそうです。

折られて、今年限り、来年は咲けないと苦にする訳でもなく、「今、此処」に咲き誇ることのみ生命を燃やすその姿が、日本のみならず外国の方の心を打つのかもしれません。

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ところで、近い人や動物の死が続くと、どんな人生だったのかな、と想いを寄せることが増えてきます。

10年前、沢木耕太郎さんの『世界は 「使われなかった人生」であふれている』という著書を紹介しました。

内容は映画評ですが、当時はそのタイトルに心動かされました。

人生は、選択の連続で、右に行くと決めたら、左に行ったときの人生は「使われなかった人生」であり、「あったかもしれない人生」、それは、いまここにある自分の人生でなく、もう一つの可能性として「ありえたかもしれない人生」で、だからこそ選んだ方で頑張るしかないのだ、とその時は受け取りました。 

 

しかし、その後10年経ち、たくさんの良いご縁や知己を、お客様や人生の先生にいただき、遠くにいる方とつながったり、全然知らない方と、実は以前縁があった、というような事が頻繁に起こるようになってきました。

イメージとしては、あみだくじ(阿弥陀籤)で、一本横棒が入ると、行き先が全く変わってくる、あのくじです。

当りのゴールにたどり着けるよう、必要に応じて、適切なタイミングで横棒となる人が現れ、うまい具合に当りに向かって行くことが多くなりました。

そうすると、「使われなかった人生」も、全部自分の人生のように愛しくなりました。

自分も、誰かの横棒になり得るのなら、これほど本望なことはないと思います。

 

 

竹内 健二